雪舟は応永27年(1420)、備中(現在の岡山県)の国分寺や国府が位置する総社あたりに生まれたと言われています。幼い日の雪舟は、禅僧となるべく「涙でネズミの絵を描いた」(注)という伝説がある宝福寺に入り、その後さらに学問を修めるため京都の相国寺に身を寄せました。そこで当時水墨画の第一人者であった同寺の周文に絵を学び、その才能を開花させる事になったのです。
雪舟は、膨大な数の作品を残していますが、「雪舟」という名を名乗り始める40代半ば以前の事については、様々な説があります。画家として絵筆を取るようになったのが比較的遅かった雪舟ですが、研究者の間では、同年代に活躍した正体不明の画家「拙宗」が、後の雪舟であると考えられています。両者を同一人物とするのは、画面構成や人物像の類似性以外にも、両者に共通する周防(現在の山口県)所縁の賛者がいる事、拙宗等揚と雪舟等楊の活躍した年代からも推測されています。
雪舟等楊
(1420〜1502または1506)
自画像:徳力善雪(1599〜1680)模
その後雪舟は周防に下り、明に渡るきっかけをつかみました。応仁の乱が勃発した直後の応仁元年(1467)、遣明使船で寧波に渡り、僅か2年にも満たない滞在期間でしたが、宮廷画家として活躍した李在から画法を学び、多くの文人たちとの交流をもった事は、後の雪舟に大きな影響を与えたに違いないでしょう。帰国後一旦博多で小庵を構え、文明11年(1479)には山口県に戻っていますが、一ヶ所に落ち着く事なく各地を転々としながら創作を続けたようです。
また戦乱の時代という背景の中で、彼は自己の理想とする山水表現を追求するため、生涯禅の精神的鍛錬を深めたといわれています。筆と墨による表現の可能性に対する徹底した探求は、石見(益田)もしくは備中・重玄寺でその生涯を終えるまで、まったく衰える事がなかったと云われています。1人の画家として、また禅僧として、生涯常に新たであろうとし続けた苛烈な姿こそが、現代の私たちに投げかけるメッセージなのかもしれません。
(注)いたずらをして柱に縛られた幼い雪舟が、そのこぼした涙を足の指でなぞり、まるで生きているかの様なネズミを描いたという伝説。
雪舟筆「益田兼堯像」
雪舟筆「秋冬山水図(冬図)」
雪舟筆「秋冬山水図(秋図)」
▲ページの先頭に戻る